2007年4月アーカイブ

「牛角」レックスのMBO、買い取り価格司法判断求めるというニュースがでていた。
 焼き肉店「牛角」のレックス・ホールディングスが進める経営陣による企業買収(MBO)を巡り、これに応じなかった個人株主120人と法人株主1社が12日、東京地裁に公正な株式買い取り価格を決定するよう申し立てをした。  レックスは昨年11月、投資会社の支援を得て株式公開買い付け(TOB)を実施した。全株式の取得を5月上旬にも完了する予定。  買い取り価格は1株23万円で、TOB前の1カ月間の平均価格を基準としているが、同社は直前の8月下旬に2006年12月期の業績下方修正を発表。基準期間が株価急落の局面と重なっていたため、株主らは「意図的かつ不当に低く価格を決めた。50万円を下回るべきではない」と主張している。レックスは「申立書を確認したうえで当社の見解を主張していく」としている。

MBOとは、即ちそれは究極のインサイダー取引であり、僕個人の勝手な考えでは、証取法で禁止するべきだ。究極のインサイダーである経営者自身が、「このディールに賭けてもいい」という判断をしたということは、それは、そのディールで充分に勝てる見込みがあるからであり、その見込みは経営者という立場だからこそ得られる情報に基づくものである。このディールが成立すれば、取引相手となる一般株主は確実に損をする。このような不正な取引を野放しにしていては、資本市場の健全な発展は望むべくもない。特に今回のレックスの件は、一般株主がかなり不利な立場に立たされており、不公正な取引であると思う。MBOに対して司法の判断がどのような判断を下すか、要注目である。
最近は、本屋さんに行ってもお金のリテラシーに関する本が増えているような気がするし、ウェブ上でもお金のリテラシーに関する議論は人気があるような気がする。理由はいくつか考えられるが、次のようなあたりだろうか?
  • お金が余っている。マクロで見れば日本が戦後60年以上に亘って蓄えてきた富なのだろうが、行き先が無くなってきている。
  • 日本経済を全体的にみれば成熟してしまっていて投資機会が限られている。また、事業を起こし富を創出しようとする人間が少ない、という意味でも投資機会は限られている。
  • 国内では富の拡大再生産が難しくなっているので、このままでは先行きはジリ貧である。そうした状況が人々に漠然とした不安をもたらし、お金のリテラシーに対する関心を高めている。
本当に厳密な学問的なことになるとわからないが、お金のリテラシーについては既に答えが存在していて、いくつかの定石に類型化できるのではないかという気がしている。巷に溢れる本を読んでも、まともな本であれば、どれを読んでも同じようなことが書いてある。あとは、切り口だとか説明の平易さが少し異なっているに過ぎない。それはそれで構わないと思う。個人によって、理解の程度だとか、どういう説明をされた時に理解しやすいかとかが異なっているからだ。かく言う僕も、お金のリテラシーには大きな関心を持っていて、このブログのテーマの1つでもある。

そんななか、「好きを貫く」に関する梅田氏の一連のエントリのなかに、お金のリテラシーに関するエントリがあり人気を博していたようだ。

お金のリテラシー、「路頭に迷う」、「向き不向き」「好き」と競争力の関係

また、そこから派生して岩瀬大輔氏のとエントリも人気があったようだ。

本当のおカネ・リテラシー
岩瀬氏のエントリの中で1点気になったところがある。

ルール#3:金融市場は効率的であるから、金融商品には「おトク」というものはない。すべてはトレード・オフの関係にある(リターンが高いものは、リスクが高いか、コストが高い)。これを徹底して理解せよ。そして、自分にとってそのトレードオフのどの要素がより大切かを、考えて選ぶようにせよ。

金融市場が「効率的」であるかどうかは議論の余地があるだろう。しかし、ここで指摘したいポイントはこれではない。「金融商品には「おトク」というものはない。」のみならず、金融商品には「とても損」なものがたくさん存在する。そして、リテラシーが低い人は、リターンが低いのにリスクもコストも高い商品をつかまされたりする危険性がある。トレードオフ比較以前の問題として、損な金融商品は、選択肢から早い段階で排除しなければならないと思う。「とても損」な金融商品の存在に触れないのは、意識的か無意識かわからないが、お金のリテラシーを語るには抜けが大きすぎるように感じる。生命保険のように損をすることが多い商品を売ろうと、作ろうとしている立場からは、触れられないのだろう。
大企業に就職することを肯定する人たちの弁として次のようなものがある。「大企業からベンチャーに転職するのは簡単だけど、その逆は難しい」、「大企業のインフラを使って大きな仕事をできる」、「その大企業を、大企業にまで成長させた色々な仕組みを勉強できる」。これらは、ある程度正しいのかもしれないが、それらを求めるのなら、小さな会社を大企業に成長させる過程に立ち会ったほうがより深く、それらを経験することができるのではないかと思う。
僕の個人的な経験では、新卒で入社した会社のあと非常に小さな事業会社に転じた。まさに零細企業だったが、非常に短期間のうちに新興市場に株式を上場する中小企業くらいの規模となった。戦略を練り、新規を調達し、インフラを整え、売上を伸ばしていく。内部的には、様々な制度が徐々にできあがり、企業らしい仕組みが整っていく。既にある程度完成した組織の中で所与として存在しているものを経験するより、企業の成長ステージの中でその時その時の必要に応じて、考えたり工夫しながら、仕組みを自分達の手で作っていく方がはるかにおもしろいし、自分の中により深く身につけることができる。
個人的には、さらに一定期間、その組織にとどまっていたならば、大企業に成長する過程でより多くのことを経験し、学ぶことができたかもしれない。僕は、そこまで見届けることなく組織を離脱するのだが、大企業を創り上げるプロセスに飽きたのではなくて、自分の好きなことを貫きたいという想いが強くなってきたからだ。優れた起業家に率いられ、彼の夢を実現するべく邁進してゆくことに違和感を感じ始めたのだ。大企業を創り上げ、彼の夢が現実のものとなった時、自分は心の底から納得することができないのではないかと思った。他人の夢にすがるのではなく、己の夢ややりたいことを追求したい。もちろん、多くの人は夢と現実の間で、自らの器の大きさを見極め、現実との折り合いをつけてゆくのだろう。そういう意味では、僕は、年をとったわりにまだまだ青いことを言っているのかもしれない。それでも、自分自身の夢と生きていくこととの接点を見つけることには、非常に大きな魅力を感じる。
「好きを貫く」に関する梅田氏の一連のエントリのなかに、大企業で働くことに関するエントリがいくつかある。 これらを読みながら、「自分はやはり大企業には向かないな」と思った。また、実際に大企業とは異なる場所を選んできた。そんな自分の大企業観はどのように形成されてきたのか、少し考えてみた。

  • 親の影響。僕の父親は大企業の代名詞のような会社、安定した超巨大企業に勤務していた。あまり出世はしなかったけれど、そこそこの給料はもらっていたようだ。郊外に戸建のマイホームを買い、たまにマイカーを買い替え、休日は趣味に没頭する。そして、子供達(僕ら)全員が大学を卒業するまでの教育費を負担した。典型的(かどうかわからないけれど)な、団塊世代の姿だ。
    そんな父親には感謝しており、僕が違う道を歩んでいるのは、親に対する反発からではない。むしろ、父親に報いたい、というような意識からだ。父親の実家はかなり貧乏だったらしく(世間的な平均から見てもそうだったのか、当時の日本が皆そうだったのかはわからないけれど)、父はアルバイトをして家計を助け、下の兄弟達の面倒をみながら工業高校を卒業し、そして大企業に就職したらしい。そんな父親とは違い、僕は金銭的な苦労を経験することなく育ち、大学を卒業することができた。僕と父とでは人生のスタートポイントとか、所与条件が異なる。そして、その違いは父親が苦労して僕に与えてくれたものだ。であるならば、父とは異なる人生を目指すこと、異なる幸せを追求することが親孝行になるのではないかと考えている。
  • 学歴に関する劣等感。中学の頃、一番手グループではないけれど、学校の成績は比較的よいほうだった。一番手グループの同級生達が(東大合格者ランキングにでてくるような)超名門進学校に進む中、僕は地元の県立高校に進学した。地元では歴史と伝統を誇る名門だが、やはり田舎の県立高校だし、のんびりとした3年間を過ごした。そして東京の二流大学に進学した。正直なところ第一志望の大学入試で不合格だったショックをひきずっての大学生活のスタートだった。
    この学歴に関するコンプレックスは、大学を卒業するまでの4年間ずっと持ち続けていた。僕の卒業した大学からも大企業に就職することは不可能ではないけれど、「一流大学」に比べれば門戸は狭かった。また、入社した後を考えても「一流大学」に比べ相対的に不利な環境になるであろうことが想像できた。なので、大学名の差が競争条件の重要な要素とならないような道として、大企業以外の選択肢を模索するようになった。
    余談だが、今では学歴に関するコンプレックスは感じなくなった。「一流大学」出身者に囲まれて仕事をするうちに、彼らの中に超優秀な人間もいれば、そうでない人間もいる、大学名と仕事上での優秀さとの間には確かに相関はあるけれど決定的な要素ではない、といった当たり前のことに気づいたからだ。
  • クライアントの姿。大学を卒業すると、とあるプロフェッショナルサービスを提供する会社に就職した。日々、クライアント先で仕事をし、いろいろな会社のようすを観察することができた。その中には、大企業も含まれてた。それらの大企業では、次のようなことに気づいた。民間企業であっても、キャリア官僚のような制度が非公式に存在しており、そのコースに乗っている人はものすごい勢いで機会を与えられ出世していく。コースに乗っていない場合、若手や中堅に与えられる機会というのはとても小さく、割と優秀な人間であっても狭い裁量の中でつまらなそうな仕事をしている。人材を飼い殺しにしているような印象を受けた。異動や転勤が容赦なく行われることがあり、事業や職務に関する土地勘を持たない、ある意味で素人が管理職につくことがある。それでも何とかなってしまうことから、大企業がもつ余裕を感じた。
  • 大企業との合併。就職して何年か経ったとき、僕の勤務先は同業大手の会社と合併した。合併相手の方が4~5倍くらいの規模があった。その時にまず感じたのが、豊かなクライアントベースと充実したインフラという大企業ならではの強みだった。顧客名簿から生み出される安定した仕事と売上は会社に余裕をもたらしていた。また、充実したデータベースやツール、各分野に拡がるサービスラインとそれぞれの分野の専門家達により、仕事の効率と質が非常によくなる場合が多々あった。合併前には、ちょっとした調べ物にも苦労していたが、合併後はデータベースやツールで簡単に調べることができたり、それでだめなら社内の専門家に聞くこともできた。また、会社全体としてみれば、全員に色々な種類の仕事をやらせていた場合に比べて、それぞれの種類の仕事に特化した部門を作ることによりサービスの質が向上し、他社に対する競争力が増していた。
    一方で、大企業への幻滅も感じるようになった。内向きな間接業務が激増したことと、組織にぶらさがる人間の姿に対してだ。巨大な組織を維持するには仕方がないのだとは思うが、社内向けの報告書、手続き、書類をたくさんこなさねばならなかった。こんなことやる暇があったら、クライアントのために働いた方がましだと思ったりした。そして組織の余裕がもたらすぶら下がる人たちの存在。そういった人たちの姿を見て感じるのは、怒りではなくて、恐怖だった。自分も将来ぶら下がる側にまわってしまうのではないか、ぶら下がる先が消滅したら外ではサバイブできないのではないか、という恐怖だ。早く外に出てサバイブする力をつけなくてはならないと考えていた。
こうして振り返ってみると、何かやりたいことがあってwhatを貫くために働く場所を選んできたわけではないし、やりかたhowを追求するためでもない。好きなことやりたいことを見つけたときに、そこに飛び込むことができるように、人生の自由度、選択肢の数を増すためにはどうしたらいいかということを考えてきたのだな、と改めて思った。
機会損失の正しい測定方法なんていうタイトルをつけてしまったが、そんなものに確信を持っているわけではない。また、ここでいう機会損失は投資意思決定に関するものではなくて、キャリアディベロップメントに関するものについて書きたい。

ある規制に守られた業界があるとする。そこで働くことは、世間相場よりも高い報酬だったり、本質的には甘い仕事ですんだり、でも表面的には一見高度な仕事をしているように見えたり、なんとなく日々忙しく一生懸命働いているような気になれる、といったメリットがある。日経新聞あたりが、「○○業界は人材不足で激務だ」みたいな記事を書いてしまうから、錯覚してしまうのかもしれない。

この業界で働いていると、よほど鋭い感覚を持った人でない限り実は甘やかされているのだ、と気づきにくいし、40才を目前にした頃には一般社会ではなかなか通用しない人間になってしまう。人件費が異常に高いうえに、一般常識に欠け、ビジネスパーソンとしてのスキルにも欠けているのだから、当然である。

この恐怖の未来から逃げるためには、比較的若いうちに業界のど真ん中からは退出する必要がある。しかし、業界から退出するに当たっては20代の若い頃であっても、給料水準のダウンだとかいくつか我慢しなければならないことがあったりする。失うものが大きすぎて退出にためらいが生じるのだ。しかし、この機会損失を気にして退出を先送りにすれば先送りにするほど、退出障壁はどんどんと巨大なものになっていき、30代半ばでの退出はほぼ不可能になる。そうなると、自らが引退するまでの20年とか30年とかに亘って業界構造を維持しようと、規制や既得権を抱え込もうとするようになる。

既得権を30年以上に亘って守ることができるのなら、あるいは30年は無理としても人生の大半に亘って守ることができるのなら彼らの勝ちだ。そうでないならば、目先の機会損失を怖れ、目先の既得権にしがみつくことによって、彼らは、将来のより大きな機会損失を被っているのかもしれない。

将来の話なんて、正しく予測することはできないし、現在価値を算出する割引率をどうするのかとか、個人個人の時間選好の問題とか、いろいろ考慮することはたくさんあるので、この問題に対する答えが一義的にきまるわけではない。

直感的には、行動しないことのコストというのは非常に大きいような気がするのだが、どうなんだろうか?10年後くらいにはこの問いに対する一定の答え、あるいはその方向性は見えているかな。
レオスキャピタルワークスの藤野社長のブログで、2年半前のエントリに高校時代の旧友というものがあった。
当時のクラス会長は仕事をかかえがちで、段取りが悪く、クラスの人心を掌握できずにひとり相撲をしていました。会長は打ち上げの日に焼肉食べ放題の「肉太郎」(というようなまぬけな名前な店だったと思う)でクラスの人数分予約をして、クラスの人たちが来るのを待ちました。ところが他のメンバーが示し合わせをして、別の店に(会長には知らせずに)集まってしまいました。肉太郎に来るわけがありません。会長は待ちぼうけです。まあ、イジメといえるのでしょう。
(中略)
すると、もう一人やってきたのがA君でした。ひょこりという感じで。
A君は
「僕は焼肉が食べたかったのさ」
と言って、あまり余計なことをいわずさっさと肉を焼き始めました。なんとなくA君の出現によってかなり雰囲気が明るくなりました。

これを読んだ時、「仕事をかかえがち」で、「段取りが悪く」、「ひとり相撲」といったあたりが、僕のワークスタイルによく似ているな、と思ったりした。つい最近までは、ひとり相撲をしながらも体力と勢いで無理やり仕事を片付けてしまうことが多かったような気がする。しかし、だんだんと若くもなくなってくると、体力勝負というのはきつくなってくる。

最近は、ひとり相撲をして苦しんでいると、周りで陰に日向に助けてくれる人が何人かいたりする。それは、別にその人たちの心を掌握できているというわけではなくて、僕の大変そうな姿を見て同情してくれているのだろう。根回しだとか、政治的な動きができるようになると、もっとものごとを進めやすくなるのだろうが、まだまだ苦手だ。

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